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理事長ストーリー

「そのトシのお前を雇ってくれるところなんか他にもうないぞ!」

自分を育ててくれた大手サロンに辞表を出した時、上司に言われたこの言葉が、バリスパとの出会いになりました。

本店で店長として働き、数字が低迷していた関東の店舗へ立て直しをするためにシングルマザーにも関わらず単身赴任をして、

週末名古屋に戻る日々を続けていました。

売上が上がらない抜本的な原因は、”売上”に囚われるがあまり、

スタッフが心身ともに病んでしまったことにあったと思っています。

一人ずつ退職願を下げてもらい根本的な問題に取り組んでいきましたが、上司から言われたことは一つ。

「人間教育をして欲しいわけではないんだよ。売上を上げてくれ。

そのために君に週末自宅に帰るための新幹線代を出しているし、

手当もつけているんだ」

この言葉を聞いた時に、所詮自分はただ会社の中の一員に過ぎないことを悟りました。もちろん、上司が言っている意味も冷静に理解することができました。

ですが、退職希望者たちの話を聞き、働く環境を整えながら売上を上げるために仕事に没頭するうちに、私自身が追い詰められていたのでしょう。

⑱理事長ストーリー.png

国際バリ・スパ協会 

理事長  金 英順 KIM YONGSUN

週末、自宅に戻った時に、

当時高校生だった次男に言われたのは、

「最近、笑わないけど大丈夫?」

という言葉でした。

次男は単身赴任をする時に一番応援してくれました。

「オモニ、今恩返しをする時だよ」と言ってくれたのです。

しかし、お姉ちゃんやお兄ちゃんが高校生の時には母親がいて、部活も応援してくれていたのに、自分の時には母親が週末しかいない。お弁当も夜食もない。

支えて欲しい時に母親がいなかったことで、

学校も遅刻することが多くなりました。

私の生きる原動力は、子どもたちでした。

どんなに大きくなったとしても、

苦労は見せまいとしていましたが、

彼らに心配をかけるのは本末転倒だと思ったのです。

しかし、”退職”の2文字を考えた当時、私は43歳。

上司が言うように、私を「雇って」くれるところは、

素直にどこもないことは分かっていました。

だから、今度は、

私自身でサロンをやってみようと思いました。

一方で、8年美容のエステサロン、5年間育毛サロンで店長を経験したものの、自分には”これ!”といった、

決定的に売りになるものはありませんでした。

「何か技術を身に付けたい。

短期間できちんとした資格は取れないのだろうか?」

その時に出会ったのが、

ニュージーランドとバリ島で取得する資格だったのです。

では、なぜバリ島だったのかと言うと、

ニュージーランドは資格取得までに半年かかりますが、

バリ島はインドネシア政府公認の資格が

1ヶ月で取得できるからです。

また、バリ島の1ヶ月の滞在費用は、

貯金を全て叩けば行けない金額ではありませんでした。

子どもたちも、

「1年間オモニがいなくて頑張ったんだから、1ヶ月なんてあっという間だよ。それよりもやりたいことをやりなよ。」と背中を押してくれました。

失業手当を受給しながら勉強をすることは、

兄に伝えました。

両親のいない私には兄は親代り。

ひとしきり話を聞いてくれ後、「貯金を全部使い切ったら、子どもたちに何かあった時に困るから」と言って、

バリ島の留学費用を出してくれたのです。

 

「お前なら出来る!」

だからこそ、留学した1ヶ月間は必死でした。

通訳の方は1名いたのですが、

その人以外日本語はもちろん英語も通じません。

そして何より、注文して1時間経っても運ばれてこない料理や、時間にルーズなバリ島の文化に理解ができず、

戸惑いだらけでした。

ですが、少しずつ彼ら彼女らを知ると、

いつもニコニコしていて、素直に感情を出すけれども、裏表がなく、イライラしている人がいないことに気づきました。

日本からやってきた自分が、いかに時間に追われ、

そして他人にもそれを求めてきたのかを知った瞬間でした。

《お互い様》

言葉は違うけれど、相手に自分の価値観を押し付けず、

相手を受け入れてくれる、優しく暖かい文化のバリ島に滞在していると、助け合って暮らしていた幼い頃を思い出して、懐かしい気持ちになりました。

そして手とオイルだけにも関わらず、

体の不調が施術が終わる頃にはまるで最初からなかったように感じられる不思議な技術がとても面白いと思いました。

日本国内の技術は勉強したつもりでしたが、

日本にはない技術だったのです。

「私が自分の強みを持ちたい」

と思って選んだ1ヶ月のバリ島留学で、

いつの間にか技術と文化、

暖かい人々の虜になっていました。

暮らしは決して豊かではなく、むしろ貧しいにも関わらず、一度友達だと認めてくれると

「ごはん食べたか?

まだ食べていないなら食べていきなさい」

「お茶を飲んで行かない?」

こうやって声をかけてくれて、家族の分を減らしてでももてなそうとしてくれる優しい人々でした。

生まれた場所も文化も、肌の色の違いなど関係なく、

家族のように接してくれるバリの人々に「恩返しをしたい」と考えるようになりました。

例えば、バリスパ技術は結果を出せると確信できるものでしたが、鷹揚なバリの人々はなぜそれが結果をもたらすのか?という理論までは知りませんでした。

「どうしてこの技術はこの手順なのか?」と尋ねても、

インストラクターの講師でさえも

「わからない」という返事でした。

セラピスト資格を取った後、インストラクター、

そして世界にまだ3人しかいないと言われている

マイスターの資格を取得したのち、

バリ島の母校でも解決できない理論と、その仕組みを日本で

セラピストやお客様が安心できるように

私自身が作ろう。

個人サロンのエステティシャンたちの頼れる、

カリキュラムを作ろう。

そこで誕生したのが、国際バリ・スパ協会です。

国際バリ・スパ協会は、本場のバリスパ技術と生理解剖学を併せて、お客様の悩みにアプローチができるように、

独自の技術をいくつか入れています。

解剖学は、私自身が実際ハワイまで人体解剖実習へ行き、

ご献体に触れて体の仕組みを学びました。

「膝が痛い」と悩んでいた方が、人体解剖実習後に、

理論を入れた新技術で施術をさせて頂いた後、

「すごい!!ヨンスンさん、膝、痛くないよ!」

そうやって満面の笑みを見せてくださった時、

涙が止まらないくらい嬉しかったことは

今でも私にとって宝物のような思い出です。

私が、この国際バリ・スパ協会の生徒たちに

「まず知識が大切」としつこいくらい口にするのは、

人体はそれくらい繊細で、それを知らない人間が、

触ってはいけない神聖なものだからです。

そして、実際に理論を知って施術をすることで、

結果的にお客様のお悩みにアプローチができたら、

「自分の力で誰かを癒すことができたら」という、

優しく純粋な生徒さんたちの

人生の喜びになるのではないかと思っています。

最初は、自分の強みを作りたいと思って始めたのが

バリスパ技術でした。

しかし、生み出したからこその責任が私にはあります。

この国際バリ・スパ協会で技術を学んでくださった方は

私の子どものようなものです。

だからこそ、自分が帰ってくるこの場所に誇りを持ち、

自信を持てるようにすることが私の使命だと思っています。

「そんなトシでお前を雇ってくれるところはないぞ!」

この言葉がなければ、私自身の現実を知るのは遅くなり、

バリ島へ行くことはなかったかもしれません。

「今のお母さんでは、お子さんを引き取れませんよ。

家もない、仕事もない、仕事をしたとしても、

誰も見てくれる人はいないのでしょう?

そんな人に、まだ幼稚園と小学校に入ったばかりの

お子さん3人を渡せるという調停員はいません。」

離婚調停の時に、

この言葉を調停員の方から言われなければ、

そもそもこの業界とは出会っていなかったかもしれません。

「昔世話になったおばちゃんには恩返しできへんかったから、その分キムちゃんへの恩返しをするわ」

バリ島で力を貸してくださっているバリの兄貴こと丸尾氏の言葉の背景には、彼がその日の食事にも困った極貧時代を送った幼少期に、「ごはん食べにおいで」と

毎日笑って迎え入れてくれた、私がお会いしたことのない

在日韓国人のご家族がありました。

こうやって私の人生は、大勢の方の縁と先人たちが築き上げてくれた恩に手を引かれるように導かれてきました。

だからこそ、今度は私が惚れ込み創り上げたこのバリスパの技術と確かな理論で、出会うお客様や生徒さんに、

縁を繋げていける人間になりたいと思っています。

「そのトシのお前を雇ってくれるところなんか

他にもうないぞ!」

自分を育ててくれた大手サロンに辞表を出した時、

上司に言われたこの言葉が、

バリスパとの出会いになりました。

本店で店長として働き、数字が低迷していた

関東の店舗へ立て直しをするために、

シングルマザーにも関わらず単身赴任をして、

週末名古屋に戻る日々を続けていました。

売上が上がらない抜本的な原因は、”売上”に囚われるがあまり、

スタッフが心身ともに病んでしまったことにあったと思います。

一人ずつ退職願を下げてもらい、根本的な問題に取り組んでいきましたが、上司から言われたことは一つ。

「人間教育をして欲しいわけではないんだよ。

売上を上げてくれ。そのために君に週末自宅に帰るための新幹線代を出しているし、手当もつけているんだ」

この言葉を聞いた時に、

所詮自分はただ会社の中の一員に過ぎないことを悟りました。

もちろん、上司が言っている意味も、

冷静に理解することができました。

ですが、退職希望者たちの話を聞き、

働く環境を整えながら売上を上げるため仕事に没頭するうちに、

私自身が追い詰められていたのでしょう。

週末、自宅に戻った時に当時高校生だった次男に言われたのは、

「最近、笑わないけど大丈夫?」

という言葉でした。

次男は単身赴任をする時に一番応援してくれました。

「オモニ、今恩返しをする時だよ」と言ってくれたのです。

しかし、お姉ちゃんやお兄ちゃんが高校生の時には母親がいて、部活も応援してくれていたのに、自分の時には母親が週末しかいない。お弁当も夜食もない。

支えて欲しい時に母親がいなかったことで、学校も遅刻することが多くなりました。

私の生きる原動力は、子どもたちでした。

どんなに大きくなったとしても、苦労は見せまいとしていましたが、彼らに心配をかけるのは本末転倒だと思ったのです。

しかし、”退職”の2文字を考えた当時、私は43歳。

上司が言うように、私を「雇って」くれるところは素直にどこもないことは分かっていました。

だから、今度は私自身でサロンをやってみようと思いました。

一方で、8年美容のエステサロン、5年間育毛サロンで店長を経験したものの、自分には”これ!”といった決定的に売りになるものはありませんでした。

「何か技術を身に付けたい。短期間できちんとした資格は取れないのだろうか?」

その時に出会ったのが、ニュージーランドとバリ島で取得する資格だったのです。

では、なぜバリ島だったのかと言うと、ニュージーランドは資格取得までに半年かかりますが、バリ島はインドネシア政府公認の資格が1ヶ月で取得できるからです。

また、バリ島の1ヶ月の滞在費用は貯金を全て叩けば行けない金額ではありませんでした。

子どもたちも、「1年間オモニがいなくて頑張ったんだから、1ヶ月なんてあっという間だよ。それよりもやりたいことをやりなよ。」と背中を押してくれました。

失業手当を受給しながら勉強をすることは、兄に伝えました。

両親のいない私には兄は親代り。ひとしきり話を聞いてくれ後、「貯金を全部使い切ったら、子どもたちに何かあった時に困るから」と言ってバリ島の留学費用を出してくれたのです。「お前なら出来る!」

だからこそ、留学した1ヶ月間は必死でした。

通訳の方は1名いたのですが、その人以外日本語はもちろん英語も通じません。

そして何より、注文しても1時間経っても運ばれてこない料理や、時間にルーズなバリ島の文化に理解ができず戸惑いだらけでした。

ですが、少しずつ彼ら彼女らを知ると、いつもニコニコしていて、素直に感情を出すけれども裏表がなく、イライラしている人がいないことに気づいたのです。

日本からやってきた自分が、いかに時間に追われ、そして他人にもそれを求めてきたのかを知った瞬間でした。

《お互い様》

言葉は違うけれど、相手に自分の価値観を押し付けず、相手を受け入れてくれる優しく暖かい文化のバリ島に滞在していると助け合って暮らしていた幼い頃を思い出して、懐かしい気持ちになりました。

そして手とオイルだけにも関わらず、体の不調が施術が終わる頃にはまるで最初からなかったように感じられる不思議な技術がとても面白いと思いました。

日本国内の技術は勉強したつもりでしたが、日本にはない技術だったのです。

私が自分の強みを持ちたいと思って選んだ1ヶ月のバリ島留学で、いつの間にか技術と文化、暖かい人々の虜になっていました。

暮らしは決して豊かではなく、むしろ貧しいにも関わらず、一度友達だと認めてくれると「ごはん食べたか?まだ食べていないなら食べていきなさい」

「お茶を飲んで行かない?」

こうやって声をかけてくれて、家族の分を減らしてでももてなそうとしてくれる優しい人々でした。

生まれた場所も文化も、肌の色の違いなど関係なく、家族のように接してくれるバリの人々に「恩返しをしたい」と考えるようになりました。

例えば、バリスパ技術は結果を出せると確信できるものでしたが、鷹揚なバリの人々はなぜそれが結果をもたらすのか?という理論までは知りませんでした。

「どうしてこの技術はこの手順なのか?」と尋ねても、インストラクターの講師でさえも「わからない」という返事でした。

セラピスト資格を取った後、インストラクター、そして世界にまだ3人しかいないと言われているマイスターの資格を取得したのち、

バリ島の母校でも解決できない理論とその仕組みを日本でセラピストやお客様が安心できるように私自身が作ろう。個人サロンのエステティシャンたちの頼れるカリキュラムを作ろう。

そこで誕生したのが、国際バリ・スパ協会です。

国際バリ・スパ協会は、本場のバリスパ技術と生理解剖学を併せてお客様の悩みにアプローチができるように独自の技術をいくつか入れています。

解剖学は、私自身が実際ハワイまで人体解剖実習へ行き、ご献体に触れて体の仕組みを学びました。

「膝が痛い」と悩んでいた方が、人体解剖実習後に、理論を入れた新技術で施術をさせて頂いた後、

「すごい!!ヨンスンさん、膝、痛くないよ!」

そうやって満面の笑みを見せてくださった時、涙が止まらないくらい嬉しかったことは今でも私にとって宝物のような思い出です。

私が、この国際バリ・スパ協会の生徒たちに「まず知識が大切」としつこいくらい口にするのは、人体はそれくらい繊細で、それを知らない人間が触ってはいけない神聖なものだからです。

そして、実際に理論を知って施術をすることで、結果的にお客様のお悩みにアプローチができたら、「自分の力で誰かを癒すことができたら」という優しく純粋な生徒さんたちの人生の喜びになるのではないかと思っています。

最初は、自分の強みを作りたいと思って始めたのがバリスパ技術でした。

しかし、生み出したからこその責任が私にはあります。

この国際バリ・スパ協会で技術を学んでくださった方は私の子どものようなものです。

だからこそ、自分が帰ってくるこの場所に誇りを持ち、自信を持てるようにすることが私の使命だと思っています。

「そんなトシでお前を雇ってくれるところはないぞ!」

この言葉がなければ、私自身の現実を知るのは遅くなり、バリ島へ行くことはなかったかもしれません。

「今のお母さんでは、お子さんを引き取れませんよ。

家もない、仕事もない、仕事をしたとしても誰も見てくれる人はいないのでしょう?

そんな人に、まだ幼稚園と小学校に入ったばっかりのお子さん3人を渡せるという調停員はいません」

離婚調停の時に、この言葉を調停員の方から言われなければ、そもそもこの業界とは出会っていなかったかもしれません。

「昔世話になったおばちゃんには恩返しできへんかったから、その分キムちゃんへの恩返しをするわ」

バリ島で力を貸してくださっているバリの兄貴こと丸尾氏の言葉の背景には、彼がその日の食事にも困った極貧時代を送った幼少期に、「ごはん食べにおいで」と毎日笑って迎え入れてくれた、私がお会いしたことのない在日韓国人のご家族がありました。

こうやって私の人生は、大勢の方の縁と先人たちが築き上げてくれた恩に手を引かれるように導かれてきました。

だからこそ、今度は私が惚れ込み創り上げたこのバリスパの技術と確かな理論で、出会うお客様や生徒さんに縁を繋げていける人間になりたいと思っています。

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